結城タンス発達史
1.起源は城下町の発生から
 室町時代の末期に結城でも城下町が発生し商人や職人達を集めてその営業を奨励され、領主結城家第十六代の左金吾政勝は弘治元年(西暦1555年)にかれらの租税を免除する等、種々保護を加えた。更に翌二年(西暦1556年)十一月二十五日に結城新法度という制度を定めて城下町を確立した。
  この市街に「番匠町」(現在も町名は残っている)があって城郭内の建造物や御殿内の調度品をつくる御用職人が住んだところであった。これよりさき東山時代(室町時代中期)で将軍足利義政が茶の湯を好んだので盛んに茶の会が行われ茶タンスができた。これに次いで書類タンス、刀タンスへと発達し遂には衣類タンスが現われた。
  結城領では領主の結城家は関東管領の配下であったが宗教、産業(本場結城紬)等で中央と密接な交渉をもったので、従って上方文化が結城地方へも移入されたことは云うまでもない。
  結城家でもはじめ小袖タンスとよばれた衣類収納調度品が用いられ領主の奥方や姫君、重臣達の家庭のために番匠町の御用職人が腕をふるって調進したといわれている。
  用材は欅(ケヤキ)が用いられたが衣類収納調度品としては湿気を防ぐ桐材が最適であったのでこれに替えられた。当時結城領内に桐の名がついた地名をみることができたところから御殿調度品として桐タンスもつくられたのであろう。結城桐タンスは実に四百年の輝かしい歴史によって発達してきたのである。
2.飛躍の一途をたどる結城タンス
  結城領主十八代四百二十一年間の名家も結城宰相秀康が慶長六年(西暦1601年)九月に越前の福井へ移封された、それで結城城は廃止となった。これによって御用職人の「番匠町」の人達は御用を解かれて民間の需要に応ずるようになった。かれらのうちで戸障子、茶タンス、刀タンス、衣類タンス、履物箱などの建具職人は鬼怒川水運の船タンスやカルコ(車の付いた長持)などに職域が拡大され、また婚礼調度品も一般のためにつくられたのであろう。
  こうした幕領代官統治の時代が九十八年間つづいて元禄十三年(西磨1700年)十月に水野隠岐守勝長が結城藩主となつた。当時は江戸文化の華と云われた元禄時代で水野隠岐守が一万石(後に八千石加増)とはいえ金紋きらびやかな駕籠に調度品も美しく勇しい伴揃えの警護で入国したが、その後の調度御用品も番匠町の職人達によってつくられた。
 かくて鎖国の三百年間太平を夢みた江戸幕府は倒れて明治時代に入るが結城の城下町も全く一変して小都会となり番匠町の職人達は必ずしも建築や建具の職人でなく、職人も事情によって(立地条件)他町内に居住して営業することになった。また世襲制でなく一般人も徒弟として修業の上職人となった。明治時代の中期にまだチョン髷のいなせな職人で建富建虎、建松と云う親方が勢力を有しており、建富の弟子は浜島文吉、吉田茂八、建松の弟子は倉持元吉(初代)、建虎の弟子には加藤辰造と云う人達があって後日結城桐タンス職人の大先輩となった。これら人達の流れを汲んだのが現在業界の花形として活躍する人達である。
  明治三十三年六月に結城町タンス商組合を創立し業界の向上発展のため運営し大きく頁献するに至った。
  大正七、八年ごろより東京方面への出荷が始められ卸が本格化して来た。これまでは近隣の町村への卸はあったがごく少なかったようである。
 大正十二年九月関東に突然襲った大震災は首都の東京を全滅に等しい被害に陥らせた、その復興もまた勇ましく行われた。結城桐タンスはその一役を担って相当多量を出荷され中央への販路が開かれ業界も大きく活況を呈した。
  昭和九年関東北越タンス製産組合連合会に参加して始めて出席し結城タンスの名を高めた。
  同十四年四月には結城タンス工業組合に改組した、その当時日本タンス連盟の連合会に於いても結城タンスは優良な実績を認められ強力な発言によって輝かしい存在を全国的に知られるようになった。いよいよ大東亜戦争が重大時局へ突入したので緊急措置として組合は解散により国策に従った。
  その前後を通じて元組合長故秋山東太郎氏が組合のために結城タンスのために日本タンス連盟のために偉大な功績をあげられた。
 殊に終戦後の結城タンスと組合の再建に尽力されたことは関東北越の業者は勿論全国の業者が斉しく知るところで、結城桐タンスの今日を築いたのは実に秋山東太郎氏の力であるといつても過言ではない。
  同二十六年度には結城桐タンスの製産高が四千本に上り金額は三千万円に達した。
  同二十七咋四月に結城タンス組合では桐タンス製産技術者の技術改良と製産向上のため結城共同家具技術者養成所を開設した。
  所長秋山東太郎、副所長近藤要の両氏を始め業界の権威が指導に当った。その修了者は現存の斯業製産上に中堅技術者となり卓越した技術と優秀な製産を精進している。
  同三十年七月には、関東北越タンス製産組連合会の定期総会が結城市にて開かれるに当り、結城桐タンス求評見本市を行ない代表的な製品一百数十点を展示し、盛大のうちに閉会して以来連続し今日に及んでいる。
 同三十二年十二月に、結城タンス業協商組合に改組して業界の発展に努めた。業者は二十五名年産一万三千本、二億円の多額に上った。従来桐タンスの主要産地では、次第に洋家具製造などに転向し衰退の傾向にある時、結城市の業者は桐タンス本位を堅持し優秀な製品と多大な産額とによって全国的代表の名声を博しつつある。
 初代理事長・秋山東太郎氏に次いで土屋重太郎、伊藤徳次郎、秋山秀寿の諸氏を経て現理事長・秋山麻吉氏に至っており、業者十八名、年産三千六百本、金額にして一億二千万円をあげている。
 同三十三年四月に本県特産物として指定され結城市五大特産物の一に列し産業上重要な地付を占めたのであった。
 なお操業に全面的な機械化されて作業の安全が確立するとともに従業員の待遇を改善され労使関係は親密を加え産業精神の向上と製産の増大により職場が安定して、結城桐タンスは多大な製産をあげ全国的によく残存し業界に雄視し異彩を放っている。
  いまや結城タンス業協同組合は、ますます力強く団結して本県並に結城市を始め関係各方面の指導と相待って創立以来永年の歴史を活かしつつ栄光の輝く彼岸へ飛躍の一途をたどっていることは、誠に喜ばしい次第である。

  

出典 昭和43年8月発行
結城桐タンス協同組合作成
特産 ゆうきたんす より